クロード式窒素工業の歴史⑤
彥島工場は操業後も事故?トラブルが頻発し混迷を極める
クロード式窒素工業彥島工場は生産を開始したとはいえ、石炭ガス化の過程でのトラブルが続出し、工場の稼働は容易には順調にならなかった。あまりにもトラブルが多発し生産が思うにまかせないため従業員のモラルも低下し、問題解決をめぐって疑心暗鬼となり、さまざまな誹謗中傷も飛び交ったという。それに引き換え、カザレー法による日本窒素工業の延岡工場は順調に生産を続けるので、誰言うともなく「あんなにうまくいくはずはない。カザレー法も700気圧の高圧だし、クロードの技術を盜んだに違いない」という、妬みともとれる風評が立ったものと想像される。
日本窒素肥料の生産が順調であったのには理由があった。同社が導入したカザレー法では水の電気分解で純粋な水素を生産し、これを空気から得た窒素と混合してアンモニアを合成するプロセスを採用した。これに対してクロード法は石炭ガス化により水素を生産しており、この違いが両社の操業の差を決定的なものにしたのである。
大正14(1925)年6月、ついにクロード式窒素工業は「カザレー法がクロード法の特許を真似している」との理由により、証拠寫真を撮るべく日本窒素肥料の延岡工場に官憲を連れて乗り込む。クロード法は1,000気圧で合成するのに対し、カザレー法は600~800気圧程度で、クロード法と同系統の觸媒を使用してアンモニアを合成していた。このため、クロード式窒素工業としては主として觸媒についての特許侵害を問題とした。
昭和2(1927)年4月に親會社の鈴木商店が経営破綻するも、クロード式窒素工業は昭和3(1928)年5月に訴えを起こし、觸媒使用に関する特許権抵觸を理由に日本窒素肥料延岡工場のアンモニア製造禁止と損害賠償を請求した。一審は日本窒素肥料の勝訴となり、最終的に大審院まで爭われた。大審院でも日本窒素肥料の抗弁が認められ、破棄差し戻しとなった。結局、クロード式窒素工業の経営は昭和4(1929)年4月に三井鉱山の手に移り、これら一連の裁判は三井鉱山の常務取締役?牧田環(後?三井鉱山會長)のとりなしにより、昭和10(1935)年になってようやく和解を見た。
大正15(1926)年、彥島工場はようやく生産が軌道に乗ってきたことから、クロード法によるアンモニア製造試験は完了したものとみなし、クロード式窒素工業は特許権を保有する會社(持株會社)となった。同年6月には新たに第一窒素工業が設立され、同社に彥島工場の運営が委ねられることとなった。代表取締役には磯部房信、専務取締役には辻湊、常務取締役工場長には加賀林莊吉、監査役には柳田富士松、支配人には武岡忠夫が就任した。
同社はそれまでの1系列(5?/日)では需要をまかないきれなくなったので、同年5月にはさらに1系列(5?/日)の増設工事に著工し、昭和2(1927)年の初めにはアンモニア生産能力は日産10?となった。しかし、彥島工場は本格稼働後から同年にかけて改めて技術の未熟さが露呈し、事故?トラブルが頻発する。特に苦労したのは水素製造のための石炭ガス化の過程で、度重なる水素分離裝置の爆発では貴い人命が失われるという事態を招いた。
〇大正14(1925)年7月13日 合成1號保護管出口U型鋼管破裂発火
〇 7月16日 水素分離裝置修繕に際しハンダ付のためトーチランプを使用したところ、殘ガスにより小爆発
〇 9月6日 2號保護管爆裂(初めての高圧合成管破裂)
〇大正15(1926)年1月14日 2號BTG保護管爆裂(2回目)
〇 7月24日 水素分離裝置運転停止時ドレーン弁を開くと同時に爆裂
〇 10月2日 ?。?サーキットの栓より発火
〇 12月11日 液化器ウォーミング中破裂し、作業員2名火傷
〇12月29日 第2號ターリー圧縮機3段インタークーラー材質悪きため破裂
〇昭和2(1927)年 5月5日 第2號水性ガス圧縮機の3段インタークーラー大爆発
〇 6月3日 第2號水性ガス圧縮機の3段弁カバーが破裂し、1名負傷
〇 7月2日 第2號水性ガス圧縮機2段インタークーラーカバーが破裂
〇 7月22日~25日 度重なる破裂?爆発の連続のため、作業員の危険手當要求が提議される。
〇 8月3日 第1號水素分離裝置が大爆発し、作業員1名死亡